北朝鮮のスウォドリング

swaddling



週刊新潮』6月24日号に、北朝鮮の少年団員(小中学生にあたる)向けのなぞなぞ本が紹介されている。
右は、そのなぞなぞの1つに添えられた挿絵の一部を抜き出したもの。
なぞなぞ自体は、「窓ひとつない閉じられた家に生まれて、静かに育ち、最後に家を壊して出てくるのはだ〜れ?」、答え「トリ」、つう他愛のないもの。
その「窓ひとつない家に生まれて」の部分を表す挿絵であるわけですが、これは赤ちゃんが布にくるまれて紐で結わえられているさまを描いている。
日本ではもうあまり見かけなくなった光景(風習)だから、これが赤ちゃんを表していることはわかりにくいかもしれない。
これはスウォドリング(swaddling)と呼ばれる風習で、かつては世界各地に広くみられた(今でも残っているが)。


ルソーは『エミール』のなかで、

子どもの手足を動けないようにしばりつけておくことは、血液や体液の循環を悪くし、子どもが強くなり大きくなるのをさまたげ、体質をそこなうだけのことだ。こういうむちゃな用心をしないところでは、人間はみな大きく強く、均整のとれた体をしている。子どもを産衣でくるむ国には、せむし、びっこ、がに股、発育不全、関節不能など、あらゆる種類のできそこないの人間が、うようよいる。人は、自由な運動によって子どもの体がそこなわれることを心配し、生まれるとすぐにかれらをしめつけることによって、体をそこねようとしている。

岩波文庫版『エミール(上)』p.34-5)

と、このスウォドリングの風習を非難している。
ということは、『エミール』の書かれた18世紀後半には、フランスでもまだ一般的な風習であったということだ。


さて、このように赤ちゃんの手足を布にくるんであまり動けないようにしておくと、ルソーのいうように、子どもの運動機能の発達に支障がでるように、常識的・印象論的には思える。
しかし、必ずしもそうではないらしい。
ボリビアアイマラ族のスウォドリングを実地調査した正高信男氏によると(『ヒトはなぜ子育てに悩むのか』講談社現代新書、そこでのスウォドリングの期間は、生まれてから平均1.5年、長い場合は2年にもおよぶという。

では、スウォドリングをやめたとき、子どもはどうするかというと、なんと驚いたことに、ハイハイのプロセスをとばして二足歩行をはじめるのである。なるほど布の取れたあと、二、三週は少し心もとない。三〇分以上立ちつづけることはむずかしいようだ。こけることも多い。しかし、おとなはまったく心配する気配を見せようとしない。尋ねてみると、なあにそのうち歩くようになるさと、すましたものである。事実、すぐに、しっかりした足どりになっていく。

(p.110)


A.ポルトマンの生理的早産説に依拠するなら(『人間はどこまで動物か』岩波新書、このことはそれほど不思議なことではない。
ヒトは他の哺乳類に比べると、1年早産であり、早産が生理的に常態化しているという。
他の哺乳類、たとえばウマは生まれたその日に立ち上がり、歩き出す。
別に、胎内でハイハイや立っち、あんよはじょうず、の練習をしていたわけではない。
とすれば、ヒトが本来産まれてくるはずの時期にあたる1歳になれば、たとえスウォドリングによって何の「練習」をしていなくても、立ち歩くことができるようになるのは、むしろ自然なこととも言える。


てなことは、ともかくとして。
北朝鮮では、このスウォドリングがまだまだ一般的・日常的なものとして生き延びているのだなあ、と、思いもかけないところで「発見」した気分になったのでした。