産経新聞で記事掲載

前エントリのデータと↓の原稿の一文が引用された記事が産経新聞に掲載されるそうです。
http://d-tsuji.com/paper/e06/
昨夜、記者の方から連絡がありました(ありがとうございました)。
新しいエントリを書く時間がなかなか取れないでいますが、取り急ぎアナウンスしておきます。

「友だちがいないと見られることの不安」

今年の初め、『月刊少年育成』に標記タイトルのエッセイを寄せました。
「便所飯」について直接ふれたものではありませんが、今の流れのなかで改めて読んでもらう意味もあるかと思い、私のホームページにアップしました。
http://d-tsuji.com/paper/e06/


この原稿について、いくつか補足を入れておきます。
調査は2008年10月31日〜11月5日に、ネット調査業者(gooリサーチ)の登録モニター20〜44歳を対象におこなったものです(日本調査の場合)。
5歳区分×男女=10セルごとに100サンプルを回収目標として割り当て、1073票の回答を得ました。
無作為抽出(ランダムサンプリング)による標本ではなく、少なくとも全回答者がネットユーザに限られるという偏りがあります。
なお、ホームページにアップした原稿執筆時点から、回答の信頼性の低いサンプルを除く作業(データクリーニング)をやり直しました。
数値に大きな変化はありませんが、以下にデータクリーニング後(有効回答1053票)の分析結果を掲載します*1


ここから読み取れるように、

  1. 「ひとりでいる」こと自体より、「友達がいないように見られる」ことの方が耐えられないとする割合は高い
  2. またその割合は、若年層ほど高い

傾向にあります。
上述のように無作為抽出データではないという点には留意しなければなりませんが、この傾向性自体はそれなりに信頼できるものではないかと思います。
根拠は、この1年前に別のネット調査業者(マクロミル)の登録モニターを対象におこなった調査でも、同じ傾向が確認されるからです(2007年10月19日〜22日実施、20〜44歳対象、有効回答990票)。


なお、2008年にはほぼ同時期にアメリカでも同様の方式で調査もおこなっています(10月17日〜23日実施、20〜44歳対象、有効回答1117票)。
ここでも同じ傾向(「ひとりでいる」より「友達がいないように見られる」ことの方が耐えられないとする割合が高く、またその割合は若年層ほど高い)が確認されたことは『少年育成』の原稿でもふれていますが、下にそのグラフを示しておきます*2


つまり、こうした感覚が若年層に強いのは、日本特有ではないということです。
20代前半の数値で比較すると、むしろアメリカの方が割合は高くなってもいます。


むろん、これらのデータは単時点の調査によるものなので、これが時代による変化なのか(最近の世代ほど「友達がいないように見られるのは耐えられない」と思うようになった)、それとも、年齢差であるのか(昔も今も若者は「友達がいないように見られるのは耐えられない」と思う)は、わかりません。
ただ、日本でおこなわれた、他の経年比較のできる(時代の変化が追える)調査では、最近になるほど友人関係をより重視するなっていることが示されており、そのことを考え合わせるなら、少なくとも日本では、時代(世代)の変化として、こうした感覚が強まっている可能性は高いものと思われます。


繰り返しますが、こうした感覚(の強まり)自体は、良い/悪いのどちらかに決めつけられるものではなく、あえて言うなら「どんな物事にも良い面と悪い面がある」ものです。
データからうかがえるその両面については『少年育成』に寄せた原稿をお読みいただければと思います。



> マスコミ・報道関係の方々へ
「便所飯」に関する取材は、前のエントリに書いたとおり、お受けしていませんが、以上のデータ(および『少年育成』の原稿)は公開したものですので、引用という形で転載していただいてもかまいません。
ただし、記事中で引用先を明示してください(「辻大介のブログに掲載されたところによると」程度の記述で十分かと思います、検索すれば容易にここにたどり着けるはずなので)。
なお、引用して掲載する旨、ご一報いただけると幸いです。
必須ではありませんし、私自身、そもそも公開された文章については適切な引用であれば著者の許諾は不要と考えています。
単に、どこでどのように使われるのかを知っておきたい、そして、このブログを通して知らせていきたいためです。
また必ず先のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20090709)をお読みになり、当方のスタンスをご理解のうえ、それなりに腹を決めて(?)お使いください。



> このエントリをお読みの方々へ
辻は先のエントリと基本的な考え方は変えていませんが、対応のしかたを考え直しつつあります。
一律にすべての取材お断りではなく、私のスタンスを伝えて、なお、それでもと言う相手先には、ここに公開したうえで何かしらの形で応じていくという向きに。
実際、このエントリは、本日コンタクトのあったある報道機関への私なりの応対として書かれています。
掲載が決定されたら、それがどこなのかは適当なタイミングで明らかにします。
このエントリと先のエントリを読んだうえで、それでも、ということなので、単に「おもしろおかしい」という意図で記事が書かれたり、番組が作られたりすることはないはずであることが前提になります。
それを前提としたうえで、その記事なり番組なりを「批評」的にみていただけないでしょうか。
その「批評」をブログにアップしろとか、掲示板に書き込めとか、そういうことではなく、単にそれぞれの方において「批評」的に考えてみていただければ、それでかまいません。
このブログがそんな多くの人に読まれているわけでもないことは重々承知ですし、これによって先のエントリに書いたマスコミの“構造的な”問題があっさりクリアできるとも考えていません。
ただ、“構造的な”問題と言うことしかできず、すごすご引き下がるのみというのも口惜しいといえば口惜しい。
マスコミとネットの関係において、あるいはメディアと視聴者や読者との関係において、次につながりうるような何かしらの動きが、わずかでも作り出せないだろうか。
そう思いつつ、先のエントリで紹介したメールに真摯な内容で返信いただいた番組制作者とも、取材に協力する方向で動いています。
甘い見通しは持っていませんが、いや、詳しくは日を改めましょう。
今日はちょっと疲れました、早くも夏バテ気味で(笑)

 

*1:「あてはまる」「ややあてはまる」を合わせた数値

*2:英語設問文はそれぞれ"I cannot endure being viewed as someone without any friends by those around me"、"I cannot endure eating alone or being alone in my room"、数値は"true"と"somewhat true"を合わせたもの

一年前に書いたこと

上のエントリでふれた約一年前の記事(朝日新聞夕刊、大阪版では2008年8月2日、東京版では8月30日掲載)で、私が「便所飯」がどうこうよりも、「いくばくかなりとも伝えたかった」ことに該当する部分を抜粋して掲載しておきます。

 こうした人間関係への敏感な気遣いは、それ自体が悪いことであるわけではない。「友達がいないように見られるのは耐えられない」者は、募金やボランティア活動への参加に積極的であることも付記しておきたい*1。これもまた、他者への気遣いの現れのひとつだろう。問題は、その敏感さゆえに、過度なまでの友達プレッシャーがはたらきかねないことにある。
 なぜこのようなプレッシャーが強くはたらくようになったのか。人目を気にすること自体は、以前から日本社会の特徴とされてきたことだ。例えば高度経済成長期には「人並みに車くらい持っていないと恥ずかしい」というように、物質的な面において人目が意識されてきた。しかし物質的な豊かさが達成されると、生活の満足度や幸福感はより身近な人間関係に左右されるようになる。意識の向かう先が人間関係にシフトするのだ。
 その意識は、特に高校までの間は、学級(クラス)を中心とした同輩集団の中に閉ざされ、苛烈な友達プレッシャーと化す。限られた関係の中で友達を作らねばならず、それに失敗した者は、孤独だけでなく、友達のいない変な人という烙印の視線にも、耐え続けなければならない。二重の意味で疎外されるのである。その視線から逃れる場所は、それこそトイレの個室くらいしか残されていない。
 今、必要なのは、学級制の見直しを含めて、子どもたち若者たちが、同輩集団以外の多様な関係を取り結べる環境を整えていくことではないか。友達などいなくとも、人に認められ必要とされる関係はいくらでもある。その相手はひとり暮らしのお年寄りかもしれないし、長期入院の子どもかもしれない。社会は広い。そこにはトイレの個室に代わる居場所が、誰にとっても必ずあるはずだ。

*1:この点は、20〜44歳の一般サンプルを対象とした計量調査の分析結果をもとに言っています(便所飯をしたことがある人にインタビューしたとか、そういうことではなく、より一般的な傾向性の話)。

「便所飯」報道についてのパブリックステートメント

朝日新聞夕刊(東京では7月6日版、大阪では7月7日版)で、「便所飯」に関する記事が掲載されました。
そこにコメントを寄せたこともあってか、辻のところへテレビ各局を中心に取材申し込みが相次いでありました。
ですが、考えるところあって、今後一切の取材はお断りいたします。
約一年前、同じく朝日の夕刊に「便所飯」についてふれた原稿を寄せたこともあり(そちらはコメントではなく寄稿記事です)、責任の一端は強く感じています。
取材を断るよりも、マスコミを通じてきちっと自らの考えるところを伝えていくという責任の果たし方もあろうかとは思いますが、そのようにしない理由を明らかにしておきます。
以下、あるところの取材をお断りした際のメールからの引用です(個人名や局が特定できる箇所は××に変更してあります)。

さて、結論から申し上げますと、お申し出の取材に関してはお断りしたく存じます。
最も大きな理由は、今回の発端となった張り紙がまず間違いなく愉快犯的なものであろうこと、その思惑にのって、これ以上、いたずらにおもしろおかしく騒動を広げたくないということです。
私自身は、かなり数は少ないものの、実際に「便所飯」をする学生はいると考えています。
それを揶揄し、嗤おうとするのが、今回の張り紙の意図です。
マスコミを通じてまで、そのような揶揄と嗤いにさらされる位置に追い込まれてしまった人たちのことを、私としては第一に考えたい。
そのような位置に追い込んでしまった責任の一端を感じる者として、私としてはマスコミ報道が早く終息してくれることを願っています。
むろん、自らの考えるところをむしろ積極的にマスコミを通じて発信していくという責任の果たし方もあろうかとは思います。
ただ、現状をみるに、それは「火に油を注ぐ」ことにしかなるまいというのが、私の判断です。


××さんの番組の報道姿勢や企画意図がどうのこうの、という問題では、必ずしもありません。
××さんの番組では、単に「おもしろおかしく」騒ぎ立てるのではなく、その背景にある社会的問題を真摯に問われようとしているのかもしれない。
しかし、制作者側の意図を離れて、テレビ(あるいは今のマスコミ)は、構造的に「おもしろおかしい」報道になってしまう、少なくともそのような部分だけが視聴者にくみ取られてしまう、そういう効果をもたざるをえなくなっていると思います。


私が一年前の夏の朝日に寄稿した記事で訴えたかったのは、決して「便所飯」の存在を世に知らせることではありません。
いくばくかなりとも伝えたかったのは、若者世代のあいだで、かつてよりも対人関係(友人関係)への敏感さが増していることであり、年長世代がそれを認識できずにいることによって、若者に対する不可解さが生じ、ある種のジェネレーションギャップが生じていることです。
また、「こうした人間関係への敏感な気遣いは、それ自体が悪いことであるわけではない」ことも記事中では述べています。
ただ、その敏感さが、ある種の負のループのなかで“過敏さ”にまで高められると、「便所飯」のような現象が生じる。
そのような現象を考えるにあたっては、時代・世代の変化として、対人関係へのセンシティビティが上昇してきたというコンテクストを認識しないと、訳のわからない「変なヤツら」としか目に映らなくなってしまう。
逆に言えば、「便所飯」を、このコンテクストから切り離して、それだけで流通させてしまうと、むしろギャップ・断絶を強調することにしかならない。
そして、それが実際に生じつつあるのが現状だと思います。


だから一年前の朝日の記事でも、「便所飯」を取り上げること自体どうしようか、些か躊躇しつつも、主張の本体部分まで読者を引き込むために、本文の冒頭に置きました。
しかし、見出しに立てることは避けました。
先日の朝日夕刊(東京版では7/6)では、見出しに大々的に「便所飯」が立ってしまいましたが、このような取り上げ方は、私はのぞましいこととは思いません(そもそもコメント部分以外はどのような記事になるのか事前に知りませんでしたが)。
それでも一年前に寄稿した責任上、最低限のことだけでもと思って、コメントを寄せました。
そのコメント部分にしても、小見出しでは「私もやった」「友達にいる」という便所飯の実在を強調するための箇所が取り出されてしまっています。
それを(変な言い方ですが)手放しで批判するつもりも、私にはありません。
私がデスクや記者であったとすれば、おそらく同じ箇所を小見出しに抜き出すことになるでしょう。
それが“仕事”ということであり、“職業人”であるということであり、翻っては現今のマスコミのもつ“構造的な”問題ということです。


繰り返しますが、御社の報道姿勢や××さんの番組の企画意図を云々したいわけではありません。
かつて数年ばかりですが広告代理店に勤めていたこともあって、テレビ業界など「おもしろおかしさ」を狙うだけの、でたらめなギョーカイ人ばかりというような、2ちゃんねら的な素朴な見方はもっておりませんし、志をもち、かつ“仕事”との折り合いをつけながら日々格闘してらっしゃるテレビ人がおられることも知っているつもりです。
御社が××のような番組を続けておられることには、大きな敬意を払ってもいます。


しかしたとえ、どのような取り上げ方をしても、現状では、たとえば「××がやってウケた」という形での「おもしろおかしい」連鎖反応が他局で続くでしょう。
昨日も、たまたま仕事の合間の時間に、ある局から電話がかかってきたので取材に応じて、一通りのコメントをしたうえで、「便所飯は大学生のあいだで一般的であるわけではなく、かなり限られたものであること、むしろその背景にある、より一般的な対人関係への敏感さの上昇を認識することが重要であること、必ずしもそれは悪いばかりのことではないこと」を、きちんと説明してほしい、と求めました。
が、結局のところ、コメントは使われることなく、そうした説明もほぼなされず、“ばかばかしい”“変な”という印象が強調されるだけに終わっていました。
コメントが使われなかった理由は私にもわかります。
その番組の流れのなかでは挿入しにくいものでしたし、プロの“仕事”として十分に理解できるものです。
そして、そのことと、テレビ(あるいはマスコミ)のかかえる“構造的な”問題は、裏腹をなすものです。


あるいは、ここまで長々と書いてきたことを、そのまま番組中で「識者コメント」として読み上げることができるか、という問題だと言い換えてもいいかもしれません。
“報道”として(あるいは“ジャーナリズム”として)は、そのような「識者コメント」があってもいいはずですが、“テレビ”として(あるいは“マスコミ”として)は、そんな「識者コメント」はありえないでしょう。


私の言う“構造的な”問題とはそのようなものだとお考えいただければ。
長文失礼いたしました。
悪しからずご了解ください。

インターネットにおける「右傾化」現象に関する実証研究


の調査結果概要報告書なるものをホームページにアップしました。
http://d-tsuji.com/paper/r04/index.htm


おそるらくはネット右翼に関する初めての計量調査。
これまで語られていたとおりの特徴が(2ちゃんねらが多いとかw)割と確かめられました。
それだけっちゃ、それだけなんですけどね......orz
目新しさやおもしろみには欠けますが*1、ご興味ご関心がおありの方はどうぞご笑覧ください。


去年の10月にやった調査なんですが、報告書をまとめるのにぐずぐずぐずぐずしてしまい、すいませんすいません。
ネット右翼関係以外で分析してみると、いろいろおもしろい知見の出てくるデータなんですけどね、
報告書には盛りこんでおりませんでして、すいませんすいません。

*1:蟹工船が売れてる今になってネット右翼かよ、みたいな

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (12)

 公的なものがだれに対しても開かれていなければならないとすれば、それは相互受動的な主体へも開かれていなければならない。先の図(a)のような相互能動的な主体たちの圏域――公共圏――は、図(b)の内に繰りこまれるような形でしか、すなわち右の図(c)のような形でしか成り立ちえない。そこに、ある種の構造的な矛盾がある。


 これは理念的な話であるばかりでなく、大衆社会においては現実的にもそうだろう。「みんな」がテーブルにつき、「みんな」が「みんな」に向かい合うなどということは、実際上不可能だ。
 図(c)におけるテーブルは、公的なものでも、ポピュラーなものでもありうる。「高円寺素人の乱」のような活動*1は、どこか「ポピュラー」な社会運動と呼べそうな気もするが、それはこうしたテーブルのうえで、テーブルについていない「みんな」(相互受動的な主体)へも、ゆるくぬるく開かれた――決して「テーブルにつけ(相互能動的な主体になれ)」と呼びかける(interpellate)わけでなく――運動とは言えないだろうか*2
 そうした「ゆるさ」「ぬるさ」が、ポピュラーなものの本質だろう。それは、公的なものの「かたさ」「熱さ(あるいは冷たさ)」と相いれない。しかしそれゆえにまた、「かたさ」「熱さ(あるいは冷たさ)」による閉ざされを、開くものでもありうるのではないか。


(とりあえずおしまい)

*1:文化系トークラジオ Life: 2007年6月3日放送「運動」を参照。

*2:もちろん、活動している本人たちがそのように意識・意図しているかどうかは、別の話だ。

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (11)

 「いっしょにいる」人は、テレビのなかに「現われ」ない。相互受動的な主体は「(公的な)現われ」をもちえないからだ。「純粋テレビ」においてすら、それはせいぜい積極的に暗示されるにすぎなかった。
 ただ、ネット上では、暗示以上の「現われ」への転換も、生じつつあるように思える。たとえば「ニコニコ動画」である。そこに見られるテロップの氾濫は、「純粋テレビ」的なバラエティ番組と同じ形式をそなえている。しかし、それらは「視聴者」が実際に書きこんだものだ。ここでは、視聴者が最小限の能動性をもって「現われ」ていると言えるのではないか。
 では、それは「公的な現われ」と言いうるだろうか。「公的な現われ」とは、見る‐見られる関係へと「現われ」ることだ(先の図(a)を参照)。ここに「現われ」ているのは、「みんな」に見られたいだけのものではないか。見ることによって「みんな」と相互受動的につながることから、見られることによって「みんな」と相互受動的につながることへの、転換。それはポピュラー性の内での構造転換であって、公共性への構造転換ではない。
 紋切り型のようにinter-activeなメディアと言い慣わされるネットにおいて進んでいるのは、実はむしろinter-passiveなものの変容かもしれない。